『天気の子』と、ヒロインになれなかった私。
以下の文章は、映画『天気の子』の内容について触れるものです。
鑑賞済みの方、ネタバレを気にしない方のみお進みください。
はじめに
先日、レンタルにて初めて『天気の子』を鑑賞した。
「面白かった」では終わらせられない、そんな作品だった。
観た人同士で感想や意見を共有して、互いの着眼点や価値観の違いに驚かされる。
より分かり合えることもあれば、分かり合えないことに気づいてしまうこともある。
そんなきっかけになりうる作品だと思う。
もしかするとこの記事を読んで私と分かり合うことを断念する人もいるかもしれない。分かっていないと呆れる人もいるだろう。
でもそれでいい。そんな作品だった。
あなたの考えも聞きたいが、まずは私がこの作品に見たものについて聞いてほしい。
私についてはこの作品に、苛立ちを覚えるほどの「愛の理想」を見てしまった。
帆高になりたかった私
まだ何者でもなかった陽菜に、「晴れ女」という役割を与えた帆高。
そして、最後には陽菜が「晴れ女」としての役割を果たすことを否定し、彼女自身の存在を留めることを望んだ帆高。
人には社会の中で演じるべき役割としての姿と、それを全て取り払った姿がある。物語の中で帆高はその双方を陽菜に見出した。
そして最後に選ばれたのは、「晴れ女」ではなく「陽菜」であった。
きっと人を愛するときは帆高のようにあるべきなのだろう。相手が何者でもなくなってしまったって、それでも大切に思う。それが理想だろう。しかし現実はどうだろうか。
誰かを好きになったとき、職業や学歴などの肩書きがなくなってもその人を好きと言えるのか。愛したのはその「役割」ではないだろうか。何者でもなくなったその人を、愛することはできるのか。
私が帆高の立場にあったとして、「晴れ女」でなくなった「陽菜」を本当に愛せるのか?
この質問にはっきり「愛せる」と答えられない私は、まだ人を愛せるほどに成熟していないのかもしれない。あるいは、純粋に人を愛するには、あまりにも現代社会に囚われきってしまったという方が正しいか。
帆高になるには、遅すぎるのかもしれない。
陽菜になれなかった私
一度は与えられた「晴れ女」の役割を受け入れ、人柱になることを決めた陽菜。しかし、帆高の行動によりある意味ではその役割を放棄し、世界の形を変えてまでも、そこに在り続けることを優先した。
正直に言えば、この行動にとてつもない違和感を感じてしまった。
「晴れ女」は、きっかけとしては帆高に与えられた役割、そして、陽菜だけが果たせると運命づけられた役割だったのだ。それを帆高ひとりの行動に基づいて放棄するのは、納得できなかった。
以前の私なら納得できない理由を「世界を犠牲にしてでも誰かと一緒に居たいという感情はありえない」として片づけていただろう。そんな感情を抱いてくれる誰かを待ちわびながら。
しかし、奇しくも、それに近い感情をぶつけられる経験をすることがあった。けれども私はそんな感情に対して、同じくらいの熱量で、世界を犠牲にするような熱量で応えることは、できなかった。
帆高のような誰かに出会えた私は、陽菜にはなれなかった、そういうことである。
私にできない愛情が、あまりにも美しい
帆高と陽菜の関係は私の夢だ。
もちろん自分が世界と誰かを天秤にかけたり、世界と天秤にかけられることは、この先もないだろう。
しかし、何者でもないその人を愛すること、全てを壊すほどに強い愛を受け入れそれに応えること、それはあまりにも美しく、私にとって理想的な愛の形だ。
『天気の子』を観た後からずっとどこかに残る苛立ちはきっと、美しい理想の愛に対して「無理だ」と思ってしまった私自身への嫌悪感だ。
私は誰かのヒロインにはなれなかったし、これからだってなれる気はしない。
この先自分が人に対してどのような感情を抱くかは分からない。明日、世界を捨ててもそばに居たい誰かに出会うかもしれない。
でも今の私にとっては、彼らの愛はあまりにも美しすぎた。