世界の諸々と、その中心たる私。

ちばから見た世界の話。

性的に見ることと、エロでとどまりたい私。①

性的に見られることや性的に見ることについて近頃思うことを書きます。

数回に分けるので途中までは意見が偏って見えるかもしれませんが、できるだけ中立でいたいと思ってます。

表現に不快な点があったらすみません。

 

 

 「そういう性的な目で見ないでください!」

創作上の人物について、ネット上にアップした人物写真について、下ネタキャラについて……様々なものについて上のような反発が見られる。

また、それに対して「これを性的に見るなという方がおかしい」という反論がなされていることも多い。

私は、そのどちらの意見も間違ってはいないと思う。

そして、どうしたらそのような対立が起こりにくくなるのかも、ほんの少しだけ考えた。

お時間があれば読んでみてほしい。そして何か意見があれば、素直には受け取れないかもしれないが、ぜひ伝えてほしい。

 

「エロい」と「性的」

普段の生活で「エロいね」と「性的だね」の違いなど意識しないが、以下では分かりやすいようにこの二つを区別したいと思う。(日常生活の中ではこのような厳格な区別はしていないし求めていないのであしからず)

「エロい」は、性を意識させることによって対象の魅力が増幅されている状態を指すものとして考えたい。一方「性的」は、直接見るまたは想起することで興奮材料(いわゆるオカズ)にするという意味合いで使っていこうと思う。

 

エロい写真に「抜ける」って言ったら怒られた?

ある女性が、水着や下着姿、あるいはほぼヌードの写真をインターネットに上げたとしよう。普段の服装では隠れている胸や尻が露出している写真は十分に性を意識させる「エロい」ものだし、興奮材料にできうる「性的」なものだろう。

その写真について、あるアカウントが「抜ける」、つまり「性的だ」とコメントをする。

すると投稿主は、「そんな目で見ないでください!気持ち悪い!」と反発。

コメントをした側は「こんなエロい写真を上げておいてどうして被害者面をするんだ」と応戦。

 

こういったことは、一般人が簡単に自分の写真をインターネットに上げ、拡散されうる現代では決して少なくないだろう。

あなたは、軽率にエロい写真を上げた女性と、「抜ける」とコメントした人、どちらが悪いと考えるだろうか。それとも、どちらも悪いと考えるだろうか。

 

批判されうるとは思うが、私はこういった出来事を目にすると、どちらも悪いというか、互いの想像力の欠如が問題になっていると考えてしまう。

以下、普段目にすることが多く考えやすいという理由で「自分の写真を上げる女性」「それを性的に見る男性」という対立を便宜上使う。しかし、言い訳じみているが、この逆の構図もありえるし、そもそも男/女という分け方自体がナンセンスという考えもあるため、よりニュートラルな形でで話せればなおよかったという願望も書き残しておきたい。

エロい写真を上げる女の子

性的に見られたくはないのに、どうして自分の「エロい」写真を公開したがるのだろうか。

私はこれに対して、「エロいキャラクターへの憧れ」という理由を考えている。

2007年に発行された相原博之の『キャラ化するニッポン』を最近になって読んだ。そこでは、東浩紀が『動物化するポストモダン』で述べた「キャラ萌え」を引きつつ、現代人は「メガネ」や「ツインテール」のような身体属性だけでなく「ツンデレ」のような性格さえ身体属性化、つまり「萌え要素」化し、それを消費しあうことでコミュニケーションがされているとの記述がされていた(六章)。

エロい写真を公開する女の子は、現代的なコミュニケーションのために自らに「エロ」という萌え要素を加えたいだけにすぎないのではないだろうか。

エロさが魅力の一因になっているキャラクターは、タレントや創作上には多く存在しているので、そんな愛され方に憧れて「エロ」という要素を欲しがる人はいてもおかしくないと思う。

そしてさらに、彼女たちはそれが「性的」に見られる可能性についてはあまり考えていないのではないかと私は邪推する。

後述するが、いずれにせよ「エロいキャラとして見てほしい」と、「興奮材料にしてほしい」は全く話が違う。だから彼女たちはエロい写真を「性的だ」と言われたら怒るのだ。ただ「エロくていいね」だけ言ってほしいのだと思う。