「雪の女王」と、「分別くさい」私。
全身が氷でできた雪の女王にさらわれた男の子カイを、ほんとうのきょうだいのように仲よしだった女の子ゲルダが助けに行く物語だ。
さらわれる前、カイの目と心臓にはものをゆがんで映す悪魔の鏡のかけらが入ってしまう。このかけらが、カイの人格を大きくゆがめてしまうのだ。
……「ゆがめてしまう」。自分で選んだ言葉でありながら私はこれに納得ができないのだ。ゆがんだカイは私にとっては魅力的にさえ映っていたためだ。
「雪の女王」の物語の冒頭部分では、悪魔の鏡のかけらが目に入った人は、物をあべこべに見たり、悪いところばかりに目をつけたりするようになると語られる。それが目に入った後のカイがどのように変わってしまったのか簡単に紹介する。
・かつてはゲルダと共にバラの花をめでていたが、虫食いやねじれに目をつけ、「きたならしいバラ」と言い花をむしり取ってしまう。
・おばあさんのお話に対して、「だって、だって!」と言ってじゃまをする。
・おばあさんや近所の人の癖や、よくないところをまねする。
・「分別くさい」遊びをするようになる。大きなレンズで雪のひらを見て、「ほんとうの花なんかより、ずっと面白いよ。どれ一つだって、まちがったところはないんだからね。」と称賛する。
・勉強ができるという描写が諸所でされるようになる。
このような特徴は、物語の中では「悪魔の鏡」の作用として悪いものとされている。実際、物語の最後には助けに来たゲルダの涙によりカイの心臓に入ったかけらは食いつくされ、目に入ったかけらはカイがゲルダの讃美歌を聞いて泣いた拍子に目の中から転がり出る。
悪魔の鏡のかけらを取りのぞくことが、ハッピーエンドの要素の一つとなっているのだ。
しかし、こういったカイの言動は本当に悪とされるべきだろうか?
確かに、花をむしり取ったり、他人のよくないところをまねするのはいただけない行為だ。けれども、おばあさんの話を「だって……」と遮るのは知的好奇心の表れのようにも捉えられるし、人のまねをするのは観察眼のたまものだ。勉強だってできるようになっている。
何より、雪の結晶の規則性を美しく感じるカイを「分別くさい」遊びをするようになったと切り捨てるのは納得がいかない。知的で、とても素敵ではないか?
……私の好みの話はさておき。
悪いところに目がつくようになり、分別くさくなったカイは、どうしてかけらを除かれる必要があったのだろうか。
私はそこに、大人から見た子供の理想像が隠されているのではないかと考えた。
「雪の女王」は童話だ。そこには少なからず、大人である作者から子どもへのメッセージが込められているだろう。
大人というのはどうしても人の欠点につけ込んだり、理屈っぽくなってしまいがちだ。そんな大人たちは、感性豊かでやさしく純粋な心を持つ子どもたちにどこか憧れを抱いているのではないか。
だからこそ、子どもにはそのままでいてほしい、分別をつけるよりも、悪いところばかりに目を付けるような人間になることを避けてほしいと願うのかもしれない。悪魔の鏡は、大人の鏡といってもよさそうだ。
この物語の最後には、このような一節がある。
こうして、この二人は、子供のままの心を持った二人の、おとなは、そこに腰かけていました。
それでも、私は悪魔の鏡のかけらが刺さったカイを素敵だと思ったし、自分も勉強ができて雪の結晶の美しさが分かるような人間になりたいと思ったのだ。
もしかすると私の目にも、悪魔の鏡のかけらが入っているのだろうか。
それとも私が子供だから、分別あるおとなに憧れるのだろうか。
いずれにせよ、どうにも分別くさい話をしてしまったような気がする。