テキストコミュニケーションと、駆け引きできない私。
リクエスト、ありがとうございます。
SNSにおけるテキストコミュニケーションと解釈して進めていこうと思います。
新型コロナウイルスの流行に伴い、人との交流が制限されている現在、私たちの、少なくとも私のコミュニケーションはSNSを通じたテキストのやりとりが中心となっている。
そんな中で実感したテキストコミュニケーションの長所と短所について書いていこうと思う。
儚さの克服
テキストコミュニケーションの特徴の中で私が特に便利に感じるのは、原則としてやり取りが残るという点だ。人間関係にトラブルが生じたときなどに何が問題だったのか会話の履歴を遡って考えるということも、仲のいい友人との会話を見返して楽しい記憶を蘇らせるということもできる。
この利点は、LINEやDMのような閉じられたコミュニティだけでなく、Twitterなどの開かれたコミュニティでも活きる。仲の良い友人グループであってもずっと一緒に過ごせるわけではないように、すべてのユーザーが24時間365日SNSに噛り付いているということは難しい。しかし、一度話題に置いて行かれた時に追いつけるかどうかは口頭とテキストでは大きく違う。あとから合流したグループの話題を初めから懇切丁寧に教えてくれる友人など滅多にいないだろうが、タイムライン上の話題であれば画面をスクロールするだけであっという間に大まかな話の流れが掴める。何も知らないまま置いて行かれるということが、残されたテキストによって防がれるのだ。
このようにテキストでのコミュニケーションは、コミュニケーションの儚さがもたらすトラブルを克服してくれる一面を持つといえる。
見えない相手、見えない自分
テキストコミュニケーションでは、テキスト以外は原則として見えない。
だから、相手の返信または既読を確認するまで、あるいは誰かからリプライやいいねをもらうまで、そのテキストはただネット上に放り投げられた一方通行の独り言に過ぎない。相手がそれを確認したかすら知る余地が無いのだ。
誰かに向けたはずのメッセージが独り言としてネット上を漂っているとき、私は孤独感に襲われることがある。コミュニケーションの相手の手ごたえを失い、一人ぼっちになったような感覚になるのだ。漂っているだけのメッセージについては、「無視された」と判断することさえ許されない。面と向かって、あるいは電話越しに相手の気配を感じながらのコミュニケーションの中では感じえない孤独感である。
また、テキスト以外の自分を見せないでよいということは、それだけ駆け引きが許されてしまうということでもある。テキスト上の自分はいくらでも偽れる。性格、感情、表情、忙しさ……そんな駆け引きと計算だらけのコミュニケーションには、息苦しさを覚えることも多い。私は、駆け引きできるほど気が回る人間ではないのだ。
大切な相手との時間は儚くてもいい、駆け引きなしの体当たりでコミュニケーションが取りたい。
そんな気持ちが高まってくる、人と会えないこのご時世だ。