世界の諸々と、その中心たる私。

ちばから見た世界の話。

イズの復活と、かけがえのない?私。

仮面ライダーゼロワンを完走してからはや1ヶ月が経ちました。

ようやく重い腰を上げて感想を書こうと思います。

主人公、飛電或人の最後の選択について思うことと、ある存在のかけがえのなさについて。

ゼロワンを鑑賞済みの方にとっては不要だと思うが、当該シーンについて少しだけ振り返ろうと思う。

最終決戦の中で社長秘書ヒューマギア(人工知能搭載型ロボット)のイズを破壊されてしまった或人は、最終話でイズと同じ外見のヒューマギアを作り、もう一度ラーニングさせることでイズを復活させようとした。

或人が自身の決めポーズを新イズに教えるラストシーンは、旧イズと出会った頃のやり取りを彷彿とさせ感動的に見えるが、それ以前の或人の発言を振り返るとやや疑問点が残る。

 

或人は劇中何度も「ヒューマギアだって、夢を持っていいんだ」といった発言を繰り返す。序盤やや対立していた刃唯阿の「ヒューマギアは道具だ」という発言に対し、「道具じゃない」とも言っている。或人は終始「ヒューマギアは人間と同じだ」という態度を取っていたのだ。

しかし、ずっと傍にいた一番大切なヒューマギアと言っても過言ではないイズへの態度はまさに、道具に対するそれではないか?ヒューマギアを人間と同じように扱うのであれば、イズの外見でありながらイズではない新イズを、自らの手で旧イズと同じように育て上げるという考えは傲慢だ。仮に新イズが、「旧イズの代替物ではなく、自らの意思で生きたい」という夢を持った時、或人はどんな選択をするつもりなのだろうか。

 

私は、ロボットと比較されたときの人間を人間たらしめているものの一つはその「かけがえのなさ」であると考えている。バックアップの取れない、というより取ることを許されないのが人間だろう。クローンを作って全く同じように育てるのなど言語道断……でも或人はそれをイズに対して行っている。

イズのことを本当にかけがえのない存在だと思っているなら、新イズという「替え」は作るべきではなかっただろう。イズの死を受け入れ、作るとしても全く新しい秘書を、というのが、かけがえのないイズへの誠意というものではないのか。

 

……と、ここまでいろいろ言ってきたが、実は私自身は人間のバックアップを取ることにあまり抵抗感はない。見た目や言動、思考パターンを完全に模倣した複製品があるなら、私の存在自体に意味はないのではないかというのが現状、私の考えである。

この考え方はあまり一般的ではないらしい。模倣品があったとしても、それはオリジナルとは全くの別モノ、それが「かけがえのなさ」。私にはそれがよく分からない。

だからこそ私は、バックアップ可能な道具であるヒューマギアを人間と同じように夢を持つひとつの人格として扱っていた或人が、「かけがえのなさ」を教えてくれると思っていたのだ。しかし最終的に或人は、新イズという複製品で旧イズの喪失を回復しようとする。これでは、かけがえのなさなど感じられない。或人にとってのイズは結局、複製可能なロボットであったのだろうか……

 

或人にとってイズが「かけがえのない」存在だったとすれば、「かけがえのない」存在を複製することが肯定されてしまう。逆に或人にとってイズが「かけがえのない」存在でなかったとすれば、彼がヒューマギアを人間と同等に扱っていたことへの疑問が残る。「人間と同じかけがえのなさを持ったロボット、ヒューマギア」という整ったエンディングを観ることは叶わなかった。

 

いずれにせよあのラストは、私という人間が「かけがえのない」存在で、代替不能であるということを支持してはくれなかった。私もいつか、私の考え通り、模倣品によって代替されるかもしれない。

不思議と少しだけ、寂しい気持ちが残ってしまった。